青山 拓央 (2012) 『分析哲学講義』
講義2 意味はどこにあるのか
†意味の客観性
†意味のイメージ説
ayu-mushi.icon意味のイメージ説にとって逆転スペクトラムが問題になると言っているが、ある人が心的イメージを持っているということに関して、そもそも逆転スペクトラムが可能でないような機能主義的な理解を採用した場合にはそのことは問題にならないのでは
あるいは逆転スペクトラムが生じているような状況では本当に2人のひとは同じ意味で「赤」、「緑」という語を理解しているとは言えないのだ、という結論が出たら都合が悪いことがあるだろうか? (その場合にはある人が意味をどう理解しているかを、振る舞いから確かめることはできないけど)
(色語の意味とは)
意味が一致しているかというのは、なにかコミュニケーションが行われているときつねに確認できるものであるべきという前提?
†イメージと概念
†規則を読み取る
ayu-mushi.iconもし語を理解することがイメージすることなら「赤をイメージするな」という命令に (理解しつつ) 従うことができない、という意味のイメージ説に対する反論は、真理条件意味論や検証条件意味論にも適用することができないか?
「ある人が独身者であるかを、どのように検証するかを考えてみよ」という命令に (意味を理解しながら) 従わないことはできるか?
「ある人が独身者であるというのは、どのようなことが成り立っている時に真なのかを考えてみよ」という命令に(意味を理解しながら)従わないことはできるか?
(真理条件意味論における、文の意味を理解することの位置づけとしては、ある文がどのようなとき真であるかを知っていることが文の意味の理解なのであり、"その場で考えていること"ではないので、これは既に知識として知っていることを改めて考えろという命令になっているだけで、従うことは問題なくできるか)
次のように言われたらどうだろう:
「たしかに赤という言葉の意味を理解しているというそのときに、常にイメージが浮かんでいるというのではない。
赤という言葉の意味を理解するには、理解しているそのときに赤いイメージを思い浮かべているという必要はないが、赤をイメージする能力と結びついている必要があるのだ。」
講義5 意味はどこに行ったか
よく分からなかったけど全てを規約的に説明することの限界を表しているように見える
講義7 可能世界と形而上学
†指示の因果説
切り裂きジャックが人殺しなのは、クリプキはアポステリオリで必然的な真理の例として上げたのだと思っていたけど、ここでは固有名の直接指示説の可能な反例として、固有名だが記述理論に準じた形で使われている例として上げている
本書は分析哲学を言語哲学中心と考えている (何を観察する際にも言語を通して世界を見るとか、人間のあらゆる認識が言語なしには成立しないとか、言語論的展開によって分析哲学が特徴づけられるというような主張もしている) のに対し、八木沢が語る分析哲学の方がティモシー・ウィリアムソン『どのようにして我々はあそこからここまでやってきたのか: 分析哲学の変容』が語る (言語論的展開が過去のものになった後の) 最近の分析哲学に近いように見える (アプリオリ/アポステリオリや必然性/可能性と言った認識論・形而上学的概念が、分析性/総合性という言語的・意味論的概念だけに頼っては十分に理解されないことを強調しており、言語論的展開に対する反動後の分析哲学の考えに見える) ので、現代的なのかなって印象を持ったけど、でも書かれたのは青山の方が後。八木沢(2011), 青山(2012) でも 『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編』は2013年だった。分析/総合の話があるのは中級編だから、後か。
『神から可能世界へ 分析哲学入門・上級編 』は2014年
青山さんも、クリプキが言語的取り決めを超えて形而上学的に様相を捉えたことには言及しているが